共に時代を歩んだ51年目のコロナマークⅡ
1972年(昭和47年)から2023年(令和5年)までの51年、愛車コロナマークⅡを大切に乗り続けた瀬名波 起廣(せなはきこう)さん(87)。高齢の為免許返納し愛車を手放す決断をされたということで、取材させていただきました。
取材日:2023年2月 ※瀬名波さんにご了承を頂きナンバーを隠さず写真を掲載しています。
取材日:2023年2月 ※瀬名波さんにご了承を頂きナンバーを隠さず写真を掲載しています。
沖縄県本土復帰の年に購入した左ハンドルの海外輸出車
1972年(昭和47年)10月に、当時の旧沖縄トヨタ自動車株式会社本社営業所(那覇市松山)より購入したというコロナマークⅡ。
当時の沖縄といえば、同年5月15日に米国との沖縄返還協定が発効し沖縄の施政権が日本に返還され、27年間の占領統治時代に終わりを迎えた年。沖縄本土復帰に合わせて法定通貨は米ドルから日本円へと替わったが、車の通行方法は米国式の右側通行が続いていた。
当時の沖縄といえば、同年5月15日に米国との沖縄返還協定が発効し沖縄の施政権が日本に返還され、27年間の占領統治時代に終わりを迎えた年。沖縄本土復帰に合わせて法定通貨は米ドルから日本円へと替わったが、車の通行方法は米国式の右側通行が続いていた。

購入した日付は今でもはっきり覚えています
契約日 1972年 (昭和47年)10月21日
登録日 18972年(昭和47年)11月 7日
復帰した日の約6ヶ月後、1972年(昭和47年)10月21日に購入したというこの愛車は左ハンドル。その6年後の1978年(昭和53年)7月30日に沖縄県の自動車通行方式は日本式の左側通行に変更され、この日付から「ナナサンマル」と呼ばれ、瀬名波さんはこの愛車で経験したという。
左側通行になれるまでは運転は怖くて大変だったと語る。
2023年となった今現在まで昭和、平成、令和と乗り続けた。通行方法の変更に伴い、ほとんどの所有者が右ハンドルの乗用車に乗り換えていく中、約51年間もの間沖縄の地を走り続けた。この瀬名波さんの愛車はまさに貴重な存在の車なのでした。
復帰前の沖縄は外国車及び外国向けに輸出された日本車が主流だったと語る瀬名波さん。
当時の街並みを知る瀬名波さんは那覇の街並みは当時の面影を残しつつ変貌し、片道3車線以上の道路は当時は無くて、那覇市安謝~浦添市の車窓から見える風景は大きく変化しましたと回想。
そんな瀬名波さんは、なぜトヨタ コロナマークⅡを購入し、50年以上の乗ってこられたのか。
左側通行になれるまでは運転は怖くて大変だったと語る。
2023年となった今現在まで昭和、平成、令和と乗り続けた。通行方法の変更に伴い、ほとんどの所有者が右ハンドルの乗用車に乗り換えていく中、約51年間もの間沖縄の地を走り続けた。この瀬名波さんの愛車はまさに貴重な存在の車なのでした。
復帰前の沖縄は外国車及び外国向けに輸出された日本車が主流だったと語る瀬名波さん。
当時の街並みを知る瀬名波さんは那覇の街並みは当時の面影を残しつつ変貌し、片道3車線以上の道路は当時は無くて、那覇市安謝~浦添市の車窓から見える風景は大きく変化しましたと回想。
そんな瀬名波さんは、なぜトヨタ コロナマークⅡを購入し、50年以上の乗ってこられたのか。

コロナマークⅡを選んだ理由、乗り続けてきた想い
会社員時代は県内企業数社に在籍されたという瀬名波さん。
1972年(昭和47年)当時のコロナマークⅡは車格的にクラウン未満でカローラより上級の位置にあって、すごく好感が持てたという。他のメーカーの車も購入候補にあったそうだが、トヨタの車は故障が少ないと友人から話を聞いていたことを決め手にこのコロナマークⅡにしたという。
これまで沢山の新型車が発売されてきた中で、なぜこの車一筋に乗り続けてこられたのかを聞いてみると、少しの間をおくことなく、"私のクルマはこのクルマだけ。他のクルマに興味を持ったことはなかった"と答えた。続けて「亡くなった妻がとても気に入っていて他の人には譲って欲しくないと常々言っていた。その妻の想いに私は答えたかった」と語った。奥様への愛、車への愛、それぞれの深い愛を感じ私たちは胸が熱くなった。
取材に同席して頂いた娘さんが思い出を語ってくれた。
「空調が冷房なしのエアコンで夏の暑い日はすごく大変でした。私の予想以上に長くこの車に乗ってきたので、エンジンがかからなくなることも多くて、止まった時には周りの通行人の方々に注目されて、それがとても恥ずかしくて新しい車に乗り変えてほしいと思ったことが昔は何度もありました。それがこの車は私たち家族にとってかかせない存在となっていって、色々な所に連れていってくれた両親との思い出が沢山つまった車なので、今ではすごくすごく愛着のある思い出深い車です」
私たちトヨタの車を販売、整備する販売店のスタッフとして沢山のお客様それぞれに大切な1台1台を販売してきているが、その後のカーライフをお聞きすることは少ない。トヨタ車を愛して信頼してお乗り頂いている方のお車との回想をお聞きして、すごく身が引き締まり感慨深いる思いを感じた。
1972年(昭和47年)当時のコロナマークⅡは車格的にクラウン未満でカローラより上級の位置にあって、すごく好感が持てたという。他のメーカーの車も購入候補にあったそうだが、トヨタの車は故障が少ないと友人から話を聞いていたことを決め手にこのコロナマークⅡにしたという。
これまで沢山の新型車が発売されてきた中で、なぜこの車一筋に乗り続けてこられたのかを聞いてみると、少しの間をおくことなく、"私のクルマはこのクルマだけ。他のクルマに興味を持ったことはなかった"と答えた。続けて「亡くなった妻がとても気に入っていて他の人には譲って欲しくないと常々言っていた。その妻の想いに私は答えたかった」と語った。奥様への愛、車への愛、それぞれの深い愛を感じ私たちは胸が熱くなった。
取材に同席して頂いた娘さんが思い出を語ってくれた。
「空調が冷房なしのエアコンで夏の暑い日はすごく大変でした。私の予想以上に長くこの車に乗ってきたので、エンジンがかからなくなることも多くて、止まった時には周りの通行人の方々に注目されて、それがとても恥ずかしくて新しい車に乗り変えてほしいと思ったことが昔は何度もありました。それがこの車は私たち家族にとってかかせない存在となっていって、色々な所に連れていってくれた両親との思い出が沢山つまった車なので、今ではすごくすごく愛着のある思い出深い車です」
私たちトヨタの車を販売、整備する販売店のスタッフとして沢山のお客様それぞれに大切な1台1台を販売してきているが、その後のカーライフをお聞きすることは少ない。トヨタ車を愛して信頼してお乗り頂いている方のお車との回想をお聞きして、すごく身が引き締まり感慨深いる思いを感じた。
コロナマークⅡの注文書 ※画質が粗く見えづらい箇所があります。

愛車との一番の思い出
昨年の2022年(令和4年)、奥様の地元伊平屋島にこのコロナマークⅡを運んで島を1周したという思い出を語ってくれた。昔にも伊平屋島に走らせたことがあるということで写真をご提供いただいた。伊平屋島といえば、沖縄最北端の有人島で日本全国に数ある「天の岩戸伝説」の最南端の地としても有名であり、周囲34kmでフルマラソン程の距離はない。瀬名波さんとご長女さんは奥様お気に入りの車を奥様の地元で走らせたかったのだという。
この下の写真のように伊平屋島は青い海、青い空、透き通った空気で、街並みは原風景が残る。晴れた日の夜空は満天の星空が見えるのでフォトジェニックとして若い方に人気のある島なのだ。
この中をコロナマークⅡが走ったことを考えると、なんとも言い表せない素敵な気持ちになった。
この下の写真のように伊平屋島は青い海、青い空、透き通った空気で、街並みは原風景が残る。晴れた日の夜空は満天の星空が見えるのでフォトジェニックとして若い方に人気のある島なのだ。
この中をコロナマークⅡが走ったことを考えると、なんとも言い表せない素敵な気持ちになった。
いまの伊平屋島は車道、歩道も綺麗に整備されている
長く乗り続けて、琉球新報に3度関連記事の掲載

2003年、2018年、2022年と琉球新報に取材を受けた際の記事を大事にラミネートされ保管資料を拝見させていただいた。
今回の私たち沖縄トヨタが取材させていただくことになった経緯は、瀬名波さんの娘さん(長女)から弊社のお店に電話を頂き、「父が運転免許返納することになりコロナマークⅡとお別れする決意をしたので家族でお別れ会を開く予定です。沖縄トヨタ自動車社員の皆さんもぜひご一緒にいかがですか?」と声をかけて頂いたことがきっかけだった。
この話は話を受けた店舗のスタッフから営業本部へ話が伝わり、ぜひ取材させて頂きたいいうことになり企画が進行した。
2022年4月に沖縄県内のトヨタ販売店4社は1社になり沖縄トヨタ自動車株式会社となったが、1972年(昭和47年)当時は沖縄トヨタ自動車、トヨタカローラ沖縄、トヨタオート沖縄(のちのネッツトヨタ沖縄)の3社でトヨタ車を販売していた(その後1979年(昭和54年)に沖縄トヨペット設立)。瀬名波さんが購入した当時の担当営業スタッフは現在は在席をしていない為、せめてその当時の状況に詳しい社員はいないか。当時の状況について話のできるスタッフがいることで瀬名波さんがリラックスして多くの話を引き出せるのではないかと考えた。しかし残念ながらスケジュール調整ができず当時を知るスタッフがいない状況となったしまった。我々で当時のことを色々と聞き出せるのかという少しの不安を抱えて私たちは瀬名波さんのご自宅に向かった。
しかし、私たちの心配をよそに瀬名波さんは語り尽くす限りの思いを語ってくれた。
今回の私たち沖縄トヨタが取材させていただくことになった経緯は、瀬名波さんの娘さん(長女)から弊社のお店に電話を頂き、「父が運転免許返納することになりコロナマークⅡとお別れする決意をしたので家族でお別れ会を開く予定です。沖縄トヨタ自動車社員の皆さんもぜひご一緒にいかがですか?」と声をかけて頂いたことがきっかけだった。
この話は話を受けた店舗のスタッフから営業本部へ話が伝わり、ぜひ取材させて頂きたいいうことになり企画が進行した。
2022年4月に沖縄県内のトヨタ販売店4社は1社になり沖縄トヨタ自動車株式会社となったが、1972年(昭和47年)当時は沖縄トヨタ自動車、トヨタカローラ沖縄、トヨタオート沖縄(のちのネッツトヨタ沖縄)の3社でトヨタ車を販売していた(その後1979年(昭和54年)に沖縄トヨペット設立)。瀬名波さんが購入した当時の担当営業スタッフは現在は在席をしていない為、せめてその当時の状況に詳しい社員はいないか。当時の状況について話のできるスタッフがいることで瀬名波さんがリラックスして多くの話を引き出せるのではないかと考えた。しかし残念ながらスケジュール調整ができず当時を知るスタッフがいない状況となったしまった。我々で当時のことを色々と聞き出せるのかという少しの不安を抱えて私たちは瀬名波さんのご自宅に向かった。
しかし、私たちの心配をよそに瀬名波さんは語り尽くす限りの思いを語ってくれた。

一緒に取材した弊社社員の1967年(昭和42年)生まれの比嘉は1972年生まれのコロナマークⅡに凄くワクワクしていた。
瀬名波さんのご長女さんはエンジンをかけるのは私たちにも難しいほどにコツが必要ですよと教えてくれたが、比嘉はすぐにエンジンをかけてみせた。ブォン ブォン エンジンをふかすとこの車はまだ現役で走れることを証明してくれているような音を鳴らした。いまでは珍しいパーツ、部品が沢山付いていた。比嘉は少年のように見入った。
瀬名波さんは86歳となり数年前から家族に運転を止められているという。この車がエンジン音を鳴らした時、自慢げな顔をしたように思えた。まだまだ相棒として運転してやりたいという思いも話を聞いている中で感じた。
車に乗る時には「おはよう」、乗り終わったら「ありがとう」と声をかけ、自分で出来る範囲のメンテナンスはやってきたという。この車のオーナーは瀬名波さんしかいない。この先も。私たちはそう思った。もし他の方の手に渡ると車が拗ねて走らなくなってしまう、そう感じてしまうほどの瀬名波さんの愛を感じた。
瀬名波さんのご長女さんはエンジンをかけるのは私たちにも難しいほどにコツが必要ですよと教えてくれたが、比嘉はすぐにエンジンをかけてみせた。ブォン ブォン エンジンをふかすとこの車はまだ現役で走れることを証明してくれているような音を鳴らした。いまでは珍しいパーツ、部品が沢山付いていた。比嘉は少年のように見入った。
瀬名波さんは86歳となり数年前から家族に運転を止められているという。この車がエンジン音を鳴らした時、自慢げな顔をしたように思えた。まだまだ相棒として運転してやりたいという思いも話を聞いている中で感じた。
車に乗る時には「おはよう」、乗り終わったら「ありがとう」と声をかけ、自分で出来る範囲のメンテナンスはやってきたという。この車のオーナーは瀬名波さんしかいない。この先も。私たちはそう思った。もし他の方の手に渡ると車が拗ねて走らなくなってしまう、そう感じてしまうほどの瀬名波さんの愛を感じた。
沖縄トヨタグループとの関係について
瀬名波さんは私たち沖縄トヨタグループとの関係についても語ってくれた。グループ創業者の故 野原 朝康について、更に沖縄トヨペット歴代元代表取締役 故堀川 徳栄、故堀川 恭進について、またこれまでお世話になった元社員、現社員についても回顧されました。何名か名前を上げていただき、ご健在の方もいればお亡くなりになられた方もいますと伝えた。
コロナマークⅡとの別れ
取材時点ではコロナマークⅡの今後について、これまでメンテナンスをして頂いてきた整備工場の方が引き取りを希望しているということでそちらにお譲りすると決めていると教えていただき、名残惜しくも私たち沖縄トヨタ自動車社員も瀬名波さんのご家族へ別れの挨拶を交わし、帰路に着くこととなった。だが後日、瀬名波さんのご家族から弊社へ新たな申し出があり、私たちを驚かせた。(後編へ続く)